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インドネシア「ジョボヨ伝説」と日本軍

オランダはインドネシアを300年以上も植民地として搾取してきた。

インドネシアでは じいちゃんも、ひいじいちゃんも、そのまたずっと前のじいちゃんも
歯向かえば迫害され処刑され白人のご主人様に貢いできた。

そんなインドネシアの「ジョヨボヨ伝説」:
「東方より来る黄色い人が白人のくびきから解き放してくれる」

そして日本軍がやってきた。
ご主人様を あっという前にやっつけた。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101030/acd1010300813004-n1.htm?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter

【紅陵に命燃ゆ】その10 柳川宗成とインドネシア
2010.10.30 08:10

 ■独立戦争の中核部隊育てる

 ◆黄色い人が救ってくれる
 昭和17(1942)年3月初め、陸軍中尉、柳川宗成は通訳2人とともにインドネシアのジャワ島西部、ボゴール付近の農村地帯に潜伏していた。
 拓殖大学から陸軍に入り、有名な中野学校で諜報(ちょうほう)員としての教育を受けたあと、この年の2月、ジャワ上陸作戦を決行した第16軍の仙台第二師団那須支隊(通称・勇部隊)に配属となった。
 3月1日にバンタム湾から上陸した後、植民地支配しているオランダ蘭印軍の後方攪乱(かくらん)や情報収集にあたっていたのである。
 だが見知らぬ土地で道に迷ったうえ食料も切れ、貧しいインドネシア人の民家を訪ねた。そこで思いもかけぬ経験をする。彼らをかくまい、温かい食べ物を提供してくれたばかりか、一家の老母が柳川の足元にひれ伏し、何かを語りかけるのだ。
 通訳によると、インドネシアには古くから「ジョヨボヨ伝説」というのがある。東方より来る黄色い人が白人のくびきから解き放してくれるという。今、オランダ軍に対している日本軍が、そして柳川がそうだというのである。
 しかもその後、老母の息子と若い孫2人が水と食料を持って柳川らに同行、間道や裏道を通り、ボゴールまで案内してくれた。柳川はこのときの経験から、「インドネシアの救世主」となることを決意する。
 日本軍がまだ南方で「快進撃」を続けていた時期である。16軍の上陸の前、海軍はスラバヤ沖、バタビア(ジャカルタ)沖の海戦でオランダや英国などの連合軍に完勝していた。このためジャワ島のオランダ軍は3月9日には降伏、これより日本の軍政が始まる。
 柳川はこの間、バンドン特務機関の責任者として情報収集などで「諜報員」の手腕を発揮する。この年の8月には第16軍の参謀部別班所属となり、ジャカルタ近くのタンゲランに、インドネシア特殊要員養成隊を開設する。

 ◆ジャワ版中野学校創立
 柳川は自伝『陸軍諜報員柳川中尉』(産経新聞出版局)の中で、「ひと口でいえば陸軍中野学校のジャワ版である」と書く。つまりインドネシア人自身の中から優秀な諜報員を育てようとしたのだ。その存在が外部にもれるのを防ぐため、名称は「タンゲラン青年道場」とした。
 翌18年1月8日、選抜された50人の若者を集めて隠密裏に行われた開場式で、隊長の柳川はこうあいさつしている。
 「諸君はわれわれから学び得るすべてのものを学び、新しいインドネシア青年に生まれかわってもらいたい。そして、諸君自らの手でインドネシアを解放してもらいたい」
 大東亜戦争を「アジアの解放」と位置づける当時の日本人全体の考え方や、柳川自身がインドネシアの老母から得たジョヨボヨの考え方が反映されていた。
 「道場」での教育内容はインドネシアの歴史や世界事情などの精神教育から始まり、諜報、宣伝、教練、体操、射撃、偵察など多岐にわたった。日本陸軍の初年兵教育に準じていたが、それよりはるかに強度なものだった。柳川の彼らへの期待の大きさだった。
 柳川らの考えは、第16軍が創設したジャワ防衛義勇軍(通称・ペタ)にも投影された。インドネシア人の強固な軍をつくり、日本軍とともに連合軍と戦わせようとしていたのだった。
 18年10月にはまずその指導者を育成するため義勇軍幹部錬成隊ができ、柳川はその第三中隊長となる。さらに19年1月、錬成隊が教育隊に衣替えすると教育隊長としてインドネシア人を鍛えた。

 ◆「見捨てず見守っていく」
 人柄もあって、タンゲラン青年道場でも義勇軍幹部教育隊でも、柳川は若きインドネシア兵から父のように、また兄のように慕われていたという。
 義勇軍については戦後、一部のインドネシア人から「日本軍の弾除けに利用しようとしたのではないか」と非難された。しかし柳川は「義勇軍はあくまで独立のためにある」と否定している。
 そのことを裏付けするように、昭和20年8月、日本の敗戦で初代大統領のスカルノらが独立を宣言し、オランダとの独立戦争が始まると多くの日本兵が日本へ帰還せず、その戦いに身を投じた。その数は千人とも1500人とも言われる。
 その中の一人に、柳川と同じ拓殖大学を出た石井淑普(インドネシア名サトリア)がいた。
 商学部を卒業する前に、陸軍特別操縦見習士官となり19年末、ジャワ島のスマランに赴任する。終戦で収容所に入るが脱走、同じ日本軍脱走兵約30人でつくる特別遊撃隊に参加、独立戦争を戦うことになる。
 特別遊撃隊は柳川の嘱託通訳で「同志」だった市来竜夫がキャップで「市来部隊」と呼ばれた。市来は青年道場や義勇軍にも深くかかわっており、その青年たちを見捨てることができなかった。
 市来は間もなく戦死するが、石井はインドネシア総軍司令部の教育大隊で教官をつとめるなど、インドネシア軍で重きをなす。
 だが柳川は独立戦争に加わらなかった。終戦時、市来が「お前はインドネシアを見捨てるのか」と迫った。柳川は「見捨てるのではない。見守るのだ。独立は自分でするものだ。自分の血を流し、自分で戦ってこそインドネシア独立の意味がある」と語った。
 このため柳川は間もなくボゴールの英軍司令部に拘束された。ジャカルタのグルドッグ刑務所に収容され、1年半に及ぶ「戦犯」生活をおくる。
 しかし22年4月に帰還した後もインドネシアへの愛着は変わらない。昭和39年には家族とともにインドネシアに移住、その国籍を取得した。60年にジャカルタで死去したときには、インドネシアの大統領らから供花があった。かつて教え子だった多くの将軍、高級将校らも葬儀に参列したという。
                   ◇
【プロフィル】柳川宗成
 やながわ・もとしげ 大正3年徳島市生まれ。大分県別府市の長兄のもとで幼年時代を過ごす。大分県立杵築中から拓殖大学専門部商科南洋語組に入学、昭和12年卒業。13年1月、福岡県の大刀洗陸軍飛行4連隊に入営、15年1月陸軍中野学校に入校、12月卒業し参謀本部付き将校となる。
 17年3月ジャワ島上陸、18年1月からインドネシア特殊要員養成隊長、12月大尉に昇進、19年1月ジャワ防衛義勇軍幹部教育隊長、12月から同義勇軍特設遊撃隊長をつとめた。20年12月、戦犯容疑でジャカルタのグルドック刑務所に。22年4月、別府市に帰還。39年、家族とともにインドネシアに移住。60年10月7日、ジャカルタで死去。享年71。
                   ◇
【用語解説】インドネシア留学生
 拓殖大学は昭和36年2月からインドネシアの留学生を受け入れた。日本とインドネシアは先の大戦の戦後処理として賠償協定を結んだがその中の役務賠償として日本への留学生への便宜供与があった。いわゆる賠償留学生である。
 日本の各大学で学ぶ前に日本語を習得する必要があり、初めは千葉大学が引き受けた。しかし大半がイスラム教徒であるため、戦前からイスラムとのつながりが強く、サトリア石井のように戦後インドネシアに残った卒業生も多い拓大が引き継ぐことになった。学内に日本語研修所(後に語学研修所)を設置、1期生として162人が約半年間学んだ。制度は7年間続き、多くの留学生がその後日本全国の大学で専門科目を学び、本国の公務員などとなった。拓大の学生との交流も進んだ。

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絶対推薦購読新聞:産経新聞
(絶対追放廃刊新聞:朝日新聞・他)

唯一、産経新聞だけが日中記者交換協定の政治3原則受入を拒否:
(1) 中国敵視政策を行なわない
(2) 2つの中国をつくる陰謀に加わらない
(3) 日中国交正常化を妨げない

昭和39年4月、日中記者交換協定で中国へ駐在した記者は
産経、読売、毎日、西日本、NTV、日経、共同通信、NHK朝日の9社から。
しかし中国を中傷したとして記者たちは逮捕、抑留、追放等されるが
唯一 朝日新聞だけが中国に駐在を継続。

その後、各社は中国からの政治3原則を受け入れた、産経新聞だけを除いて。
(今も産経新聞記者は中国に"旅行者"としてのみ記者を派遣、他社記者は駐在。)

朝日新聞NHK、他は、隠し、歪曲し、捏造し、嘘をつき、国を売る。
今、朝日新聞社ビルの同じ階についたて越しに反日・人民日報東京支局がある。
反日・ニューヨークタイムズ東京支局もある。
売国奴新聞・朝日新聞
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