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長州藩校 「明倫館」 (産経新聞)

1719年に創設された長州藩の学校「明倫館」、志士たちを育てたという。
1849年に移転新設された「明倫館」が大きく記された絵図がみつかった。
教育に力をいれていたんだ。
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20091212_絵図・明倫館.jpg
(新たに見つかった、嘉永2年ごろの萩城下町を描いた絵図。藩校「明倫館」が大きく描かれている=山口県萩市の萩博物館(小林宏之撮影))

http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/091207/art0912071101001-n1.htm

維新の志士育てた長州藩校「明倫館」新築時の姿 絵図発見
2009.12.7 10:55

 高杉晋作や木戸孝允(たかよし)ら幕末から明治維新の志士を育てた長州藩(今の山口県)の藩校「明倫館」が、西日本最大規模に新築された直後の嘉永2(1849)年ごろに描かれたとみられる萩城下町の絵図が、萩市内で見つかった。萩博物館は「明治維新の原動力となった人材育成へ、藩の気概が伝わる貴重な資料」としている。

 絵図は縦1・7メートル、横1・9メートルで、二曲一隻のびょうぶ仕立て。市内の個人住宅の整理中に見つかり、所有者が11月上旬、同博物館に寄贈した。城下町開発の進み具合などから、江戸時代後期の嘉永2年ごろに描かれたという。

 当時は、明倫館が萩城三の丸から城下町のほぼ中央に移り、西日本一の規模を誇る藩校に建て替えられた直後で、その状況が見て取れる。絵図の中央には「明倫館」の文字がはっきりと記され、大きな敷地に築かれた様子も分かる。

 武家屋敷や社寺、農地などをそれぞれ色分けして詳しく示す一方、城の本丸や二の丸付近は雲で隠されていた。博物館では「町人が描かせたため、城についてはおそれ多くて詳しく載せなかったのかもしれない」と推測する。

 現在でも江戸時代の古地図を見て散策できるほど、当時の町割りがよく残っている萩城下町。清水満幸・統括学芸員は「高杉たちが歩いたのと同じ道を踏みしめることができる町並みがあり、この絵図のような資料を大切に守ってきた住民の高い意識がうかがえる」と話す。来年1月28日まで同博物館で公開されている。

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 【用語解説】明倫館

 長州藩の5代藩主・毛利吉元が享保4(1719)年、家臣の子弟教育のため萩城三の丸に創建。「孟子」の「皆人倫を明らかにする所以なり」から命名。13代藩主・敬親が、老朽化と人材育成を理由に嘉永2(1849)年、城下町のほぼ中央に移転新築。敷地が約5万平方メートルに拡張され、剣術場や水練池なども備えた西日本一の規模を誇る藩校となった。現在は、跡地に萩市立明倫小学校が建っている。
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