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吉田松陰 と 草莽崛起

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吉田松陰がアヘン戦争のニュースを耳にしたのは、15歳のとき(西暦1840年代半ば)でした。
兵学者ゆえにいち早く西洋の脅威に気がつき、以後「この脅威の本質は何か」
「西洋諸国と戦争して勝てるか」ということを考え抜いていくことになります。

十代後半の松陰は、そのために猛勉強をしました。
ロシアがカムチャッカ半島まで達したことはペリー来航以前に知っていましたし、
イギリス艦隊の編制、船に積んでいる大砲や陸兵の数という情報まで入手していますが、
それだけではありませんでした。

「日本はどこから攻められると一番危ないか」という問題意識をもって
日本各地をくまなく見聞してまわり、すでにペリー来航の前年には、
遠く津軽半島にまで足を延ばしていたのです。

この頃の松陰は、公的には長州藩の末席にいる一人の武士でしかありません。
しかも、形の上だけの兵学師範の跡取りでした。
日本全体の外交、国防を担うのは幕府であり、その意味で松陰は正式に何の役目もない、
一民間人にすぎない存在でした。
そういう二十代前半の若者が日本国中を歩き、海防対策を考えるという行動をとったのです。

この行動力と知性を支えたのは、松陰の精神性といえるでしょう。
「こうだ」と思ったことは実現しなければいけない。
他人ではなく、自分かどうするかが大事なのであり、
自分の身を厭い、利を計る、ということは松陰の眼中にありませんでした。


それはJ・F・ケネディの有名な言葉
「国は自分に何をしてくれるのかを考えるのではなく、
自分か国のために何かできるのかを考えなければならないときがある」
を連想させるものがあります。

民主主義は国民が主権者です。
しかし、そもそも「主権者」とは国に対し最も重い責任を負い、時には自分を犠牲にして、
与えられた部署でそれぞれの役割を喜んで果たすものなのです。
そういう民主主義の主人公である「主権者像」が松陰の口をついて表われたのが、
「草莽堀起」(民間人が立ち上がる)という言葉だったのです。

残念なことに、現在の日本では「有権者」という座にあぐらをかきながら、
自分か主人公、当事者である、という感覚を持たない国民が
大手を振って閑歩しているように思います。
よくも悪しくも国民を代表するのが民主主義の指導者だから、
国民が「まとも」にならなければ、この国はまともな指導者を持つことはできません。
本来の主人公である国民の自覚、これが切実に求められていると思います。
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草莽崛起(そうもうくっき)。
当事者であるという感覚を持つには、真実の歴史を学ぶことだ。

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参考:
「日本人の本質」中西輝政(著) 日本文芸社




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